70代になっていた若冲は、「天明の大火」で多くの京町衆と同様に焼き出され財産を失いました。いったんは大阪へ逃れ、絵を米に換えて生計をたてていましたが、その後、京都市伏見区深草にある石峰寺へ移り、最期の10年間はここで隠遁生活を送りました。
本日、床の間にかけてある『伏見人形図』が描かれたのはこの頃です。伏見人形は、深草にある稲荷山の土に「霊験がある」と持ち帰る風習から、江戸時代にみやげ物として量産されるようになったもので、現在でも深草の土は良質で、建材に使われます。そのような土壌で育った伏見人形のふくよかな姿に晩年の若冲はひかれたのではないでしょうか。