雪中雄鶏図

第一回「住まい」

日時
10/25 13:00-16:00
講師
松井薫
会場
長江家

REPORT

収入、物価

ところで、収入はどれくらいあったのか、武士を例に試算してみました。なお、ここでは[1合(180cc)=180g]として計算しています。

一般的に「100石取り」とは、「100石の米が採れる土地が与えられる」ということを意味するため、実際の収入は60石程度です。現在の米の値段に換算すると、米5キロで1500~2000円の間をとり仮に1750円とすると、1升630円、1石はそれの100倍ですから63,000円、100石取りで年収630万円となります。また10人扶持の場合、1人1日5合の計算で、1日5升、1年で18石、換算すると、年収113万円くらいとなります。

そんな禄高のわりに、公家は大きな家を与えられ、やりくりに苦労し当時の権力に上手く取り入ろうとしていたようです。この接待を目的として、まずは公家の家に接客空間や茶の間ができてきて、その後、経済力をつけた庶民の中にも同様のタイプの家を建てる者が出てきました。江戸中期は身分制度の中で、そういうことが混在していました。

江戸中期の市街地の大きさ

次に、江戸時代の京都の町の大きさに注目してみましょう。

当時、市街地とされていたのは、北は鞍馬口通、南は七条通、東は鴨川、西は千本あたりまででのエリアでした。平安時代初期の市街地はもっと西側にあり、千本通りが都の中央道路「朱雀大路」でしたが、京都の西の方は水はけが悪く、洪水などが頻繁に起こるため人が住みにくい場所でした。そのためマチはしだいに東へ移っていき、平安末期には新町通りが都の真ん中になります。江戸時代になり、天明の大火(1788年)の頃には、鴨川より東側にも市街地が開け、その周りには近郊農家が広がっていました。御所には天皇が住み、警護する武士と儀式を取り仕切るための公家が御所の周りに集まり、京都の人口は約40万人に達しました。

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