雪中雄鶏図

第一回「住まい」

日時
10/25 13:00-16:00
講師
松井薫
会場
長江家

REPORT

錦市場について

若冲が過ごした錦市場付近の町並みは、江戸時代の京都の名所記『京雀』に掲載されている挿絵からうかがい知ることができます。若冲の家は青物を商っていましたが、ここに描かれている商店では、魚の乾物などを商っています。

資料:「『京雀』に載っている挿絵 錦市場(1664年)」
資料:「京都の四辻と共有施設の配置」
若冲が住んでいたのは、東洞院蛸薬師と錦通の間。

大災害からの復興と町家

災害も京都の町並みや建築様式に大きな影響を与えました。

江戸時代、京都では、大きな火事が3回起こりましたが、この数は高密度低層木造住宅の町にしては大変少ないと考えられます。防火のために、町内での決まりごと(町式目)や火の用心の見廻りを行っていたようです。

江戸時代の大災害のひとつ「天明の大火」は、1788(天明8)年1月30日(現在の3月7日)未明に鴨川東側の団栗辻子付近の町家から出火し、御所・二条城・京都所司代などが焼失、京都市街の8割が被害を受けたといわれています。東から西への風にあおられ、火は鴨川を越え西側に移り、鎮火したのは発生から2日後でした。北は鞍馬口通、南は七条通、西は千本通まで焼けています。

大災害の後は、復興のために新たな住宅が大量に必要になり、同じ形の建物がたくさん作られました。

「天明の大火」後、入口から通り庭に面して部屋が3つある一列三室タイプの典型的な町家が多く作られ、屋根が瓦葺になります。都市整備としては排水も通り、中2階の建物もあることから、2階建てを建てるだけの建築技術があったことが分かります。江戸時代中期、庶民はこのような一列三室の町家に住むようになっていきます。

資料:「京都の中戸町家(守貞漫稿より)」
一列三室タイプの典型的な町家。入口から通り庭に面して部屋が3つある。

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