雪中雄鶏図

第二回「錦市場」

日時
09/21 14:00-15:00
講師
宇津克美
会場
錦市場商店街振興組合

REPORT

限られた敷地を多機能に使う工夫

このように、錦市場は何度も存続の危機に直面しますが、若冲をはじめ各時代の多くの人々の尽力で現在まで続いてきたのです。これ以降も錦はたびたび試練に見舞われます。

京都の三店魚問屋は、江戸時代までは独占的に商いをおこなっていましたが、明治時代になり特権が廃止され自由競争が導入されると、売り手と買い手のバランスが崩れ乱売が始まり、3つあった「たな」は急速にさびれます。続く大正時代、米騒動が起こると市場から物がなくなり米の値段が高騰し大混乱に陥りました。これ以降、物の価値の基準を作ることが市場の大きな役割と認識されるようになりました。

1927(昭和2)年、京都で全国にさきがけて中央市場ができます。大正時代、錦にあった65軒の魚屋のうち30軒が中央市場へ移動しました。中央市場が出来て以降、商いは量より質を重視するように変わっていきました。終戦後は、闇市になり、GHQからはとりつぶしを言われます。当時の町衆は、「錦には400年の歴史があるのだ」と訴え、この危機を回避します。さらに昭和35年、四条烏丸から河原町までを走る阪急電車ができた時には、水が渇水するということで当時の役員が阪急電車と掛け合い、組合が各店に井戸水を提供する仕組みを作りました。

このように、時代の移り変わりの激しさに耐え、繁栄を維持するために錦市場の人々は協力して取り組んできました。若冲もそんな錦の歴史の一点に存在するのです。

錦ブランド

錦市場で、買い物に来きたお客さんから「八百屋が多いのによく共倒れしないですね」と言われますが、同じ八百屋でも細分化しています。京のおばんざい、促成野菜専門店、京ブランド野菜専門店など独自の顔・独自の味を持っており、それが錦ブランドとなっています。

地域によって商いの方法は違います。大阪は梅田北の大開発に見るような大規模な商いです。一方、京都は職人の町ですから、「ちょっとおいしいものがあればいい」と考えます。この京都人の堅気気質が錦を育んだのです。

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