雪中雄鶏図

第二回「錦市場」

日時
09/21 14:00-15:00
講師
宇津克美
会場
錦市場商店街振興組合

REPORT

落款に現れる「錦」への若冲の思い

若冲はさまざまな落款を残していますが、その中に「錦街若冲」と押されているものが相国寺に残っています。この落款には、錦市場に対する若冲の感謝の気持ちが込められています。現在でも若冲作品が鮮明な色で残っていることを鑑みれば、若冲が作品を描くのに使っていた顔料の高価さが推測できます。天下の狩野派でさえ、一国一城の主でない限りスポンサーにならなかった時代、若冲が錦の「桝源」から得た恩恵は計りしれなかったのではないでしょうか。だからこそ、若冲は錦に対し感謝の気持ちを持っていたでしょう。

また、若冲と親交が深かった僧侶売茶翁が若冲に教えた老子哲学の中にある「大盈若沖」という言葉、「あまりに大きく充分に満ち足りたものは中が空虚に見える」すなわち「普通の人には大きな無駄に見えるものも使い方次第でどのようにも役に立つ」という意味であると私は理解していますが、この哲学も若冲の作品中に現れています。

宮内庁に寄贈していた若冲作品が120年ぶりに相国寺にもどってきた時、取材陣にも公開され、私も初めて若冲の作品を観ました。学芸員から作品についての解説がありました。

「満開の紅葉の風景画の中の、一枚の落葉に若冲は自分自身を重ねて表現している」というのです。私には、家督を弟に譲って絵を描かせてもらっているという若冲の感謝の気持ちが現れているように感じられました。

若冲はなぜ「伏見人形七布袋図」を描いたのか

若冲は生涯で2回火事に遇っており、1回目の火事からはすぐに立ち直りますが、2回目は天保の大火で焼け出され財産を失います。大阪方面に逃れ転々とした後、伏見の石峯寺に落ち着き、ここでも多くの作品を残します。石峯寺の五百羅漢の下絵は若冲が書いたものです。また、伏見の名産品伏見人形をモチーフにした作品も描いており、特に7体の布袋さんを描いた「伏見人形七布袋図」の絵は有名です。

当時、先にご紹介した若冲が町年寄として奔走した1771年の「青物立売市場」営業停止をめぐる争いごとと同じような事が伏見の奉行所でも起こっていました。伏見の奉行所の役人が自分の遊興費を捻出する為に税金を課したのです。この不平等に怒った7人の町衆が江戸へ直訴に行きますが、獄中や道中で亡くなり誰一人として戻らなかったのです。この事件に自身を重ね合わせて若冲は7人の布袋図を描いたのではないかといわれています。

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