雪中雄鶏図

第二回「錦市場」

日時
09/21 14:00-15:00
講師
宇津克美
会場
錦市場商店街振興組合

REPORT

屋号「桝源」に込められた思い

若冲の生家は「桝源」という屋号で商いをしていました。この屋号に込められた思いについて私の稼業を例にご紹介しましょう。

私は現在、錦市場で京つけもの「桝俉」を営んでおりますが、私より6代前の宇津五兵衛が、造り酒屋を創業した際に初めて「桝俉」という屋号を定めました。当時「桝」は、商売の計量の基本単位でした。また「俉(悟)」は自らを悟り戒めるという意味がありますから、「桝俉」という屋号には、物事を正しく誠実に量り、嘘偽りのないまっすぐな商いをしたいという創業者の思いが込められています。正しい商いをしていたら利益はあとから付いてくる、「先義後利」の思想です。実は様々な分野の商店の屋号にこの「桝」の文字が使われています。若冲の生まれた青物問屋「桝源」にもおそらくそのような思いがこめられていたのでしょう。

錦小路命名の理由

錦通りはご存知の通り、西は大宮から東は新京極までありますが、錦小路の起こりは西暦800年頃、平安時代にさかのぼります。当時は、寺町京極は「東京極(ひがしきょうごく)」と呼ばれ京都の端で、それより東は河原でした。御所も昔は西にあったことなどからも、京の都は西から東に中心が移動してきています。

都は朱雀大路を中心に、東西に碁盤の目に広がっていました。牛車が行き交うために大路の対岸は100~200メートルもありました。小路でも50メートルはあったといわれていますから、町衆の生活にとっては大変不便であったでしょう。そこで平安時代後期になると町衆は自分たちで生活道路を作り、あだ名で呼びました。これが現在の京都の中心地における通りが「歴史的細街路」と呼ばれる由縁です。あだ名のついた通りの中で有名なのは、錦小路です。

錦は、公家屋敷の門前であるために具足を売っていたことから、具足小路と呼ばれていたこともありますが、錦小路と呼ばれるようになったのは1054(天喜2)年であるとされており、『宇治拾遺物語』第19話の説話「清徳聖奇特の事」の中で語られています。

■清徳聖という偉いお坊さんが、食いしん坊の餓鬼や畜生と食べ比べをして勝ち、説教して東へ凱旋する途中、四条大通で生理現象から糞をすると、従っていた百鬼夜行も糞をしたことから小路一帯が糞だらけになり、それ以降、「糞小路」とあだ名が付いた。

この話が、時の帝の耳に入り、都の真中でそのような名前はふさわしくないと、帝は右大臣に「四条大通の南側の通りを何というか」と問われました。この質問に右大臣は「綾小路」であると答えました。そこで、帝は、織物の綾織・錦織にちなみ、四条の北側を「錦小路」にしてはどうかと提案し、この名が付けられたと伝えられています。当時、織物の中でも換金できるものを錦織と呼んだのですが、ほんまもんを売る場所という意味もあります。

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