雪中雄鶏図

第二回「錦市場」

日時
09/21 14:00-15:00
講師
宇津克美
会場
錦市場商店街振興組合

REPORT

錦「市場」の出現

さて、通り名の起こりにつてご紹介してきましたが、では錦小路に「市場」ができたのは、いつからでしょう。

はっきりとした年月については定かではありませんが豊臣秀吉天下統一後の頃であると考えられています。現在の錦市場は、大丸がある高倉から寺町京極までの間にありますが、昔は高倉側の方角に公家屋敷とその西門があり、錦は藪だったといわれています。商人にとっては、休息所であり、公家屋敷への身支度をするまたとない立地でした。本格的な市場になったのは、1615(元和元)年で、幕府により魚問屋の称号を授けられます。幕府から鑑札を得て独占的な商売を許される所を京都では「たな」といい、都中の魚の販売を一手に引き受けて取扱いました。

当時、京都は奉行所から3つの「たな」すなわち「上の店(かみのたな)」「錦の店」「下の店(しものたな)」の三店魚問屋(さんたなうおどんや)が認められます。「上の店」は、上京区の椹木町通西洞院に、「下の店」は下京区の問屋町五条にあり、それぞれ繁栄を極めました。

江戸時代中期、1770(明和7)年になると、奉行所が錦小路高倉に青物立売市場を認めました。

しかし翌年にはいったん許可が取り消され、1779年(安永8)年に再開し、魚市場に加えて生鮮野菜市場ができ、本格的な生鮮産品の食料品市場の基となり、成長発展していくことになります。

錦市場の存続をかけて、町衆若冲の働き

若冲は江戸中期の画家で、花鳥草木魚介類を描かせたら右に出るものはいませんでした。今でいう商社が高倉から西に出来て栄えた時代の荷受機関の青果問屋の長男に生まれ経済的には恵まれた環境の中、40歳で家督を弟に譲り絵の修業に専念することができたのです。とはいえ、隠居してからの若冲は絵ばかりを描いていたわけではありませんでした。枡源があった中魚屋町の隣の帯屋町の町年寄を勤めるなど地域貢献もしていました。

そんな折、大事件が勃発します。1771(明和8)年、商売敵であった「下の店」の策謀により、奉行所から「錦の店」の帯屋町・貝屋町・中魚屋町・西魚屋町は事実上青物立売市場の営業停止を言い渡されたのです。当時、町年寄を務めていた若冲は営業存続のために奉行所との交渉に当たりました。

「下の店」と「錦の店」、奉行所の間でさまざまな駆け引きがありましたが、町年寄の若冲は「市場が営業停止になると数千人の人々に迷惑がかかる」と、錦市場存続のために奔走しました。人脈をたどりある人物からの助言を得て、市場と取引のある農民たちに「市場が営業停止になると年貢が納められなくなる」と御上に訴えを起こさせました。その後も奉行所等と交渉を重ね、3年後の1774(安永3)年8月、条件付きでようやく市場は公認されました。

今日の錦が「京の台所」としてあるのはこのように先人が命がけで守ってこられたからです。

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